2008年05月12日

ペンテコステって何のステ?

 たまには、牧師らしくキリスト教の解説を書こうと思います。宗教的な内容はパスという方はスルーして下さいm(__)m

 今日は母の日です。で、現在のイベント性のある母の日の起源になったのは、アメリカの教会での出来事だと言われています。母の日はキリスト教の祭りではありませんが、キリスト教に関係あるイベントとして教会では広く祝われています。

 で、それと共に今日はペンテコステというキリスト教の重要な祭りの日です。
 キリスト教の3大祭り
 1降誕祭(クリスマス)
 2復活祭(イースター)
 3聖霊降臨日(ペンテコステ)
の一つです。

 ペンテコステという言葉のペンテの部分が、「5」という意味です。ペンタトニック(5音音階)とかペンタゴンとか言うあれです。ペンテコステという言葉は単に50日目の祭り、五旬節という意味です。この日に聖霊というものが天から降ってきたので聖霊降臨日と呼ばれています。
 十字架にかかったイエス・キリストが墓に葬られ3日目に復活し40日間地上で活動した後天に昇ります。残された弟子たちにはキリストの十字架と復活という新しい教えを世界中に布教する使命が与えられます。が、この弟子たちがとんでもなく頼りないダメ弟子たちで、キリストの教えをあまり理解できていなかった上に、キリストが逮捕される時には逃げ出すという有様でした。とても、布教の重責を担わせるのは無理な話。そこで、イエス・キリストの代わりに、聖霊が地上に降ってきて、弟子たちの心の中に宿り、弟子たちは大胆にキリストの十字架と復活を宣伝するようになってゆく…と聖書の物語は続きます。
 
 聖霊とかいうとちょっとオカルトチックですが、自分を失って知らないうちに操られるというようなたぐいのものではありません。むしろ自分の中に対話の相手、専属カウンセラーがいるという感覚です。何かに取りつかれたような神秘的経験ではなくて、理性も自分もしっかりある状態で、聖霊と対話することによって、励まされたり慰められたり力づけられたりという経験です。一言で言えば人格的交流ということです。
 聖霊との対話と言っても天から声が聞こえるわけではありません。聖書とお祈りが具体的なツールです。「え、それだけ、普通やん」と言われそうですが、特に変わったこともしませんし変わった道具も使いません。聖霊という人格的存在をイメージしながらお祈りする、お祈りという方法を通して相談したりお願いしたり不安な自分をさらけ出したりするということです。それに対して、聖霊の方からのリアクションというのは大体の場合は聖書の言葉を通してなされます。聖書という書物は2000年以上前に書かれた幾多の書物の集合体なので、今の自分の状況に対応するために書かれたわけではありませんが、そういう聖書の言葉の中から、今の自分にとって勇気が出る言葉や、癒される言葉が不思議と心に響くという経験をします。聖霊からの語りかけを聖書の言葉を通して受け取るという期待をもって聖書を読むわけです。

 というわけで、聖霊降臨!とか言っても、キリスト教の信者は外見上特別な変化はありません。むしろ淡々とした日常生活の中で、聖書を読んだり、お祈りしたり、日曜日には礼拝したりということにより深く神様とのつながりと対話を意識してゆくという感じです。日本人は普段の生活と祭り、日常と非日常のギャップがある方が宗教っぽいと感じるのではないかと思うので、
 ハレとケの区別があまりない、日常生活の中で神様と一体化してゆくというこの信仰の雰囲気というのは、日本人にはあまりなじみがないかもと思います。でも、どっちかいうと、私たちが助けを必要とするできごとは普段の生活の中で起こるので、聖霊という形で日常生活に深く神様が入り込んできていつでもスタンバイしているキリスト教はなかなか宗教としての実用性があるという風に思います。
 キリスト教にはお祈りしたらその場で病気が治るみたいなインスタントな御利益はありません。超常現象も起こりません。むしろ、素敵な人と付き合っているとだんだん自分も影響を受けて素敵になってゆくように、聖書を読んだりお祈りしたりという普通のことを毎日する中で聖霊との関係を深めてゆき、ジンワリ素敵な人になってゆくということです。そういう全人格的な変革が徐々に起きるという点が、キリスト教のメリットかなー。その場で問題が解決したり、人が変ってしまうというのも魅力的ですが、10年前の自分からは確実に良くなってるよというのはなかなか人生トータルで考えるといいもんですよ。  

Posted by せさみん at 00:18Comments(0)TrackBack(0)聖書

2008年03月24日

イースター(復活祭)

 昨日の日曜日はイースターと呼ばれる復活日の礼拝でした。
 教会の3大イベントの一つなので、ちぃと疲れましたが、礼拝の後でケーキやお菓子の持ち寄りをして食べて、楽しい時を過ごしました。そんなんで、たまには牧師らしくキリスト教行事の紹介などしてみます。

 イースターとは復活祭というのが正式名称です。イエス・キリストが十字架にかかって死に、墓に葬られ三日目によみがえったということを記念して行う祭りです。イースターという言い方は、ゲルマン神話の女神の名前に由来するという説もあるので、私自身はイースターという名称はそんなに好みません。教会では復活際、復活日などと言っています。
 復活したキリストはやがて天に昇りますが、それまでの間地上でしばらく活動します。その出来事がいくつか聖書に記録されています。復活祭の礼拝では、復活したキリストの言動を取り上げて、そこから現代の信者に有益なことをお話しするというのが牧師の仕事になります。

 そんなわけで復活の出来事は毎年勉強してお話しするので、ネタが尽きるんじゃないかと心配するのですが、意外と毎年新しいことが心に留まります。聖書の奥深い所です。で、今年特に思ったことは、イエス・キリストの心の広さです。
 イエス・キリストは十字架につけられるために逮捕されるのですが、その直前まで弟子たちはキリストと一緒に食事をし、お祈りをして過ごしていました。ところが、逮捕されるとみんな逃げ出します。そもそもキリストをユダヤの宗教指導者に売り渡したのがユダという弟子の一人でした。イエス・キリストの筆頭弟子を自認していたペテロ(ペトロ)という男に至っては、周りの人に「あんた、イエスの関係者やろ」と聞かれて「そんな人知らん」と3回も否定して逃げ出し、自己嫌悪に陥る始末です。
 ところが、復活したキリストはペテロやほかの弟子に出会っても、「よくも裏切ったな。地獄へ落ちろ!」とは言わず、「これから世界中に出て行って宣教(布教のことです)に励みなさい」と言うわけです。よくもまあ、こんな連中にそんな大切なことを任せるなーと思いますが、復活したイエス・キリストの姿というのは、キリスト教の中心的な教えである、愛とゆるしそのものだなーと改めて感動した次第です。
 それだけ広い心でゆるされたら、人間頑張ろうと思うじゃないでしょうか。イエス・キリストが十字架に架けられてよるべき大樹を失った弟子たちは、実は路頭に迷いかけ、昔の仕事にもどろうかなんて思っていましたが、宣教という大切な仕事を任されて、生きる目的とか人生の意味を再発見。これも嬉しいことだと思います。もっとも、イエス・キリストを十字架にかけた、ユダヤの宗教指導者たちがうろついてますから、すぐに宣教を始めることはできません。実は、弟子たちの活動が本格的に始まるのは、ペンテコステという出来事を経てのことになります。今年はペンテコステが5月になるので、その時期になって覚えていたらこの話の続きを書こうかと思います。
 そうそう、それと復活日で重要なことをもうひとつ。もともとキリスト教はキリストが活動する以前はユダヤ教であったわけで、ユダヤ教では安息日という礼拝をする日は土曜日って決まってました。ところが、キリストが日曜日に復活したので、そのことを記念するためにみんなが日曜日に集まり始め、土曜日の礼拝が日曜日に変わりました。そういうわけで日曜日という曜日はどうしても変更できない、外せない曜日です。もし友達がクリスチャンの場合は、日曜日に付き合いが悪くても許してあげて下さい。礼拝だけはどうしても行かねばならんのです。もっとも、クリスチャンのくせに日曜日に礼拝に行かないで遊びの誘いに乗るような友達がいたら、叱ってやって下さい(-_-)/~~~ピシー!ピシー!

 ところで教会の3大イベントは、イースターとクリスマスとペンテコステです。この3つのうちでもっとも歴史が古く、もっとも重要なのはまちがいなく「イースター」です。クリスマスはイベント性はありますが歴史的にはかなり後付けなもんで。この話も、クリスマス時期に覚えていたら書くことにします( ..)φメモメモ  

Posted by せさみん at 16:01Comments(2)TrackBack(0)聖書

2008年03月18日

黄泉がえり

 福岡出張なんとかクリア。やっぱバスがいちばん安心です。今回のビデオは「黄泉がえり」でした。
 

 2003年の映画だそうです。後でテロップ見ていたら「長沢まさみ」って出てましたがどの役だったのか気づきませんでした。主演の草なぎ君と竹内結子の他にも伊藤美咲とか、私でも知ってるくらいの有名な人がたくさん出てたみたいです。

 ところで、映画を見た方には改めて説明する間もありませんが、要は死んだ人が次々とよみがえるという話です。最後にはよみがえった人たちは消えてしまいますが、このことを通して生きる意味を考えさせられるという内容でした。

 なかなか良かったです。で、仕事のことを思い出しました。実は聖書には復活ということがかなり明確に書かれています。キリストがもう一度地上に来る日があって、その時、死んでいた人はまさにこの黄泉がえりの映画のように、体をもってよみがえらされるという内容です。そしてそのまま天に携え上げられます。つまり、死んだらすぐに天国に行くのではなくて、魂が一時休息所みたいな所にいて、キリストがもう一度地上に来た時に、その魂と復活した肉体が一緒になって天に上るということになります。
 
 くしくも今週はキリスト教会では、受難週と呼ばれる一週間です。キリストが十字架にかかった苦しみを心にとめるという特別な期間です。そして来週の日曜日はイースターと呼ばれる復活日の礼拝になります。バスの運転手さんがそんなこと意識して「黄泉がえり」を流したわけじゃないでしょうけど、なかなかタイムリーでした。

 最後に、老婆心ながら、愛する人に思いを伝えたい人はチャンスを逃さないで、というのが映画を見た感想です(゜-゜)  
タグ :映画バス

Posted by せさみん at 08:49Comments(9)TrackBack(0)聖書

2007年05月28日

ペンテコステ

 たまには牧師らしくキリスト教の祭日について書きます。
 実は、昨日はキリスト教3大祭日の1つ、「ペンテコステ」の礼拝でした。(ちなみに他の2つはクリスマスとイースターです。)もっとも、クリスマスやイースターと比べれば知名度が低い祭日なのでご存じない方が多いかもしれません。
 で、ペンテコステというのは何のお祝いかというと、イエス・キリストが十字架で死んで復活し、天国に上って行った後で、聖霊が天からくだって来るという出来事が起こったことを記念するお祝いです。それで、「聖霊降臨日」とも言われています。
 日本では「霊」と言えば、幽霊とか悪霊、背後霊とか守護霊の類を思い浮かべる方が多いと思うので、なんだかオカルトチックですが、「聖霊」というのはそういう怪しいものではございませんicon十字架振りかざして、悪霊退散!とか聖霊の力によって悪魔を追い出せ!とか、そんなの映画の話。まともなキリスト教会はそういうことはしてませんのでご安心下さい。
 で、目に見えない聖霊について説明するのはむつかしいことですが、聖霊が働くとどうなるかということは簡単に説明できます。例えば罪を犯してしまいそうになった時「やっぱりやめよう」という気持ちが働くとか、ものすごく落ち込んでいる時に神様にお祈りして慰められるとか、勇気が出ないときに内側から力がわいてくるとか、聖書を読んでいても一向に分からなかったのになんだか書いてある意味が分かるようになるとか、そういうのが聖霊の働きです。目に見えないけれどいつも一緒にいてくれるし、間違ったことをしそうになったら止めてくれる、さりげなく助けてくれる、そういう本当の親しい友達のようなものが聖書の言っている聖霊です。洗礼を受けてクリスチャンになったとしても、それで完璧な人間にはなれません。やはり人間には自己中心的な面がありますので、神様に従って生きる生き方に導くガイドのような聖霊という存在が必要なのです。

 で、ペンテコステは重要な割にはマイナーな祭日です。クリスマスソングは数知れずあり、イースターが歌詞に出てくる歌もなきにしもあらずですが、ペンテコステソングというのはまず聞きませんだいいち、賛美歌にも数曲しか収録されていません。私が知っている曲でペンテコステという歌詞が出てくる歌はたった1曲。Paul Simonの「Duncan」という古い歌です。辻説法している少女がペンテコステについて告げたというような歌詞だったと思います。祭日自体もマイナーだし、例えに出す曲もマイナーですが、華々しいイベントがない分、信仰の本質的な部分にふれることができる、真にキリスト教らしい祭日ではないかと思うのですが。  

Posted by せさみん at 14:11Comments(2)TrackBack(0)聖書

2007年05月14日

母の日

 昨日は母の日でした。erieriさんが書いて下さっていましたが、母の日が恒例行事として行われるようになったのはアメリカの教会でのできごとに起源があります。それで、多くのキリスト教会では母の日の行事を年間のスケジュールに組み入れています。日本は教会のスケジュールに合わせて5月の第2週が母の日になっています。

 ところで母の日を思いたったジャービスさんが心に思い描いていた聖書の言葉があります。それは十戒という有名な十の言葉の中にある「あなたの父と母を敬え」という言葉です。この言葉には、そうすればあなた方は長生きするという約束が付け加えられています。
 父と母を敬うということは、単に自分の両親を敬うということではなくて、民族として父や母の世代の人々、自分よりも上の世代の人々を敬うという意味がこめられています。そのことによって、お年寄りが大切にされる社会ができるので、自分が年をとったときにも暮らしやすく老後が健やかに生きられるということになります。それで長生きするという約束があるのです。父母を大切にするということは、結局自分に返って来ることなのです。

 ところで我が家もご多分にもれず、市内在住の義母の所に行ってまいりました。花とブルネンのかぼちゃプリンを持って行きましたが、晩ご飯までごちそうになって帰ってきました…そんなつもりはなかったのですが、早速自分に帰ってきた感じですicon  

Posted by せさみん at 06:33Comments(2)TrackBack(0)聖書

2007年04月30日

過越の祭り

 昨日の礼拝では「過越の祭り」という今でも続いているイスラエルのお祭りの起源となった出来事についてお話しました。モーセという80歳のおじいさんが神様からリーダーに指名され、200万人くらいいるイスラエル民族をエジプトから約束の地(今でも戦争が絶えない現在のイスラエルあたり)に導き出すという話です。この民族大移動一大プロジェクトに、イスラエルを労働力として利用していたエジプトのファラオ(王様)は当然のことながら猛反発。イスラエルがエジプトを出て行くのを拒否しますが、神様がエジプトに次々と9つの災いを下しついに10番目の災いによってファラオは折れます。
 この10番目の災いが、人間から家畜に至るまでエジプト全土の初子(長男)を打つという恐ろしい災いです。イスラエルは神様の命じた通り、羊か山羊をほふってその血を玄関の門柱とかもいに塗りつけます。その血が塗りつけられている家を神様の使いが通り越して(過ぎ越して)、イスラエルが救われるということになります。この日、ほふられた山羊または羊を焼いた肉と、イーストを入れないで焼いたパンと、苦菜と呼ばれる青菜・ハーブ類を一緒に食べるのが過越の食事。その食事をしながら子どもが父親に「この食事にはどういう意味があるの?」的なことを聞くと父親が「昔エジプトで奴隷になっていた時に云々」と話します。3000年以上昔から今に至るまでイスラエルの人の最も大切なお祭りとして祝われています。今年の過越は4月3日ですが、この時期のイスラエルはホテルでも過越の食事しかなかったりするとのこと。聖書には「永遠の定めとしてこれを行え」とか「在留外国人にも酵母を入れないパンを食べさせよ」とか書いてあるのでそれが守られているってことです。

 ところでこの話を聞くと神様はひどいように思うのですがそうではありません。イスラエルはもともと飢饉を避けて70人そこらの人数でエジプトに移住してきて400年ほどの間に200万人にも人口が増えて、家族だと思っていたら民族になっていたという経緯があります。人口が増え続けるイスラエルの民族に恐怖を感じて長年奴隷のようにこき使ったのはファラオです。神様は再三にわたって、モーセの口を通じて、イスラエルをエジプトから出て行かせないと災いが起こるって予告もしたし、しまいにはファラオの側近たちも、「イスラエルを行かせないと災いが起こりますよ」って進言しました。ファラオが「行け」って言えば済む話なのに言わないからです。人間は自分のやったことは棚に上げて、神様のやることが厳しいって言いがちですが、キリスト教の神様は不正をそのまま許すほどは寛容ではありません。そうじゃないと正直者がバカを見ることになりますから。
 神様の愛とか寛容とかいうのは、不正を見逃すことではなくて、不正なことをした時に、心を改めて神様に立ち返る人を無条件でゆるして、過ちをおかさないで生きる道に導くことにあるのです。  

Posted by せさみん at 07:21Comments(0)TrackBack(0)聖書

2007年04月23日

牧師の仕事

 昨日の礼拝では牧師の立場と仕事について書かれてある聖書の箇所を読みました。1世紀のギリシアの教会で、自分の気に入った牧師を立てて派閥を作るということが起こっていて、パウロという人がそれを戒める手紙を教会に書いて、その中で牧師の立場と仕事についてただすという内容です。聖書にはこういう醜聞(スキャンダル)記事が包み隠さず書かれていて、キリスト教徒よお前もか!って思いますが、案外こういうことって、いつの時代のどの世界にもあるようなこと。反面教師にして反省する謙虚さがないと同じ過ちを繰り返してしまうことになります。
 ところでこの箇所に牧師の仕事は何だと書かれてあるかと言うとずばり「神の言葉を管理すること」です。神の言葉を管理するというのは、具体的には、礼拝で聖書の言葉を解き明かして語るということと、そのことを通して布教するということです。そして、神の言葉のビジュアル的表現として、聖餐式という儀式があるので、それを担当することです。要は一週間聖書を読んで毎週日曜日ごとに礼拝で聖書の話をするというのが牧師の仕事です。一般社会で働いている方から見れば、非生産的な仕事に見えるだろうと思うのですが、宗教というのはもともとそんなに生産的なものでもないだろうと思います。

 結婚式場のパンフレットを見ていると、「専属牧師」がいますみたいなことが書いてあることがあります。牧師は日本では国家資格でも何でもないので名乗るのは自由です。でも本職から言わせれば、牧師でもない人に牧師を名乗られて不愉快極まりないと言うのが正直なところ。だいいち日曜日に結婚式場で仕事してたら牧師どころか、キリスト教徒でもないし。キリスト教式の結婚式がキリスト教の布教に一役買っているというのは全くの誤解で、結局キリスト教が冠婚葬祭宗教に堕落し、世間から誤解されていくことを助長するだけ。真剣にやってる者にとっては迷惑でしかありません。

 今週も私の仕事は、聖書を読んでお祈りし、来週の日曜日に話すことをまとめるというのがメインです。「できませんでした」では済まないので、毎週ものすごいプレッシャーです。でもプロの牧師とは、このことを使命として生きている人間であり、このことに命をかけている人間なのです。  

Posted by せさみん at 08:35Comments(0)TrackBack(0)聖書

2007年04月16日

賢い人、愚かな人

 昨日の日曜日の礼拝では「知者になりたい人は愚かになりなさい」と書かれている聖書の箇所からお話しました。矛盾しているようですが、一言で言うと、神様の知恵と人間世界の知恵は違いますよという話です。

  考えること、知ることは大切なこと。キリスト教は考えたり知ったりするための材料にこと欠くことはありません。よく話を聞いて、聖書をよく読めば納得できることもたくさんあるはず。全くわけの分からんものを頭ごなしに信じろっていう宗教ではありません。ただし十字架とか復活だとか大切な教えは人間の知識をはるかに超えた神様の知恵に属していて、それだけは理解するという作業ではなくて、信じるという心の働きになります。この部分が、信仰です。逆にそういう信仰の部分がないと宗教じゃないですもんね。
 もっとも、本当に賢い人は人間の知識や経験に限界があり、それ以上の何ものかがあることを無意識のうちに知っているものです。大学時代、クラブの後輩(工学部)とこんな話をしていたら、やはり彼も科学じゃ分からないことって多いですよ…とこぼしていたことを思い出しました。今分かっている知識を出発点にするよりも、人間を超えた無限のものがあるというところを出発点にして科学する方が、より深い真理に到達できたり、新しい事実を発見できる可能性があるのではないかと思います。

 そういうわけで神学を研究してものすごい知識のある学者であっても、信仰がなければ救いとか天国とかにはまったく縁がありません。逆に学校に行ったこともないし難しいことは分からんっていう人でも、単純に神様を信じれば天国に行けますよというのがキリスト教の面白いところ、そして神様の平等なところです。  

Posted by せさみん at 09:03Comments(0)TrackBack(0)聖書

2007年04月09日

イースター

 昨日の日曜日はイースター(復活祭)の礼拝でした。イースターはキリスト教でいちばん大切な行事です。え?クリスマスじゃないのって…クリスマスは世俗化してしまい、もはやキリスト教の行事だとは言えないほどに世間に浸透しているので、認知度は上ですが、教えの内容と、祝われてきた歴史という点から言えば断然イースターの方が重要です。キリスト教の信徒でもあまり理解していない人が多いんですが(^_^;)

 何はともあれ、昨日の礼拝ではイエス・キリストが十字架で墓に葬られて復活したという聖書の箇所から説教(聖書の解説とお話です)をしました。
 遺体を引き取りたいとの要望を受けて、十字架にかけられたイエス・キリストの死が、ローマから派遣されていた総督ポンテオ・ピラトと処刑の責任者であった百人隊長との間で確認されます。続いて、アリマタヤのヨセフという、心あるユダヤ人国会議員の手によって葬られます。私たちは火葬しますが、当時のイスラエルは土葬。ミイラみたいに遺体に布をグルグル巻きつけて、滝尾の百穴みたいな感じの横穴をお墓にして遺体を安置します。ところが十字架刑の行われた日は金曜日。金曜日の夕方から土曜日の夕方までは安息日という、礼拝のための日に定められていました。(当時のイスラエルでは夕方から一日が始まりました)夕方になって安息日が始まると色々な制限があって遺体を葬ることができなくなるので、埋葬は大急ぎで行われました。
 土曜日の夕方になって安息日が終わり、一晩明けた日曜日の早朝、イエス・キリストの生前、身の回りでお世話をしていた女性のうちの3人が、遺体に香油を塗るためにイエス・キリストの墓に行きます。遺体に香油を塗るのは女性の仕事だったということと、男性の弟子たちはイエス・キリストが逮捕されて十字架にかけられるときには、逃げ出していていなかったからです。(不甲斐ない男たち!!)
 2人の女性は気合を入れて朝早くから出かけてますが、墓の入り口には盗掘を防ぐために巨大な岩が置かれていて、誰かにどかしてもらわないと中に入ることができないということを思い出します。それでこの3人の女性たちは「誰が岩を動かしてくれるかねー」なんておしゃべりしながら、のんきに(無計画に!)墓にやってきてみると、あら(*_*)びっくり。例の重たい岩がどかされて、中には天の使いが座っているではありませんか!
 天の使いが言うには「十字架にかけられていたイエスはここに葬られていたけれど、よみがえったのでここにはいません。生前に約束していたようにガリラヤで再会するつもりなので、そのことを(裏切って逃げ出した)弟子たちに、特に(3回もイエス・キリストとの関係を否定した)ペテロに伝えて下さいね。」気が動転した女性たちは驚いて脱兎のごとく逃げ去ります。その後弟子たちは復活したキリストに出会い、神様から下された聖霊の助けによって、人が変わったように布教に励むようになります。

 キリスト教では、イエス・キリストが死から復活したことにより、すべての人の復活が可能であることが証明されたと考えます。私たち人間もこの世での生涯を終えたら終わりと言うのではなくて、もう一度新しい肉体と永遠のいのちをもらって復活し、将来神様が再建する新しい世界で生きるということが約束されるということです。よく、死んだら天国に行くと言われますが、天国は実体のない魂がフワフワ生きている世界ではなくて、新しい肉体をもらってよみがえった人間が神様と一緒に生きてゆく世界であって、木も草も川もあれば家もあるという世界です。
 もう一つ大切なことは、今まで土曜日だった安息日という礼拝の日が、キリストの復活を記念して、日曜日に変更されたということです。礼拝の曜日を変更するというのは、宗教上はとてつもない大変更なのですが、すでに1世紀のうちに日曜日=礼拝というのが習慣として定着したことが分かっています。イースターというのは年に一回だけですが、日曜日に礼拝をしているということ自体が、イエス・キリストの復活を記念することになります。なので、日曜日という礼拝の曜日はとても大切で、人間の都合で変えることはできません。

 キリスト教信徒は、この超非科学的かつありえない「復活」ということを、仮死状態からの蘇生とか、心の中で生き続けたとかいうことではなくて、本当に死んで本当によみがえったのだと信じています。そして、そのことによって、自分もやがて天国へ入れていただいて神様と共に生きるという目標を持ちます。死んで終わりならば、他人に迷惑をかけない程度に楽しいことをして、おいしいものを食べて生きようという人生哲学もアリですが、死んでもその先があると思えば、その先のことを考えて生きる人生もアリだと思います。復活を信じるとは、自分の経験や知識を積み重ねてすべてのことを判断する人生から、まだ見ぬ天国への希望や、人間を超越した神様から与えられる導きから逆算して人生を生きる生き方へのシフト、つまり人間中心から神様中心への視点の転換を促すので、まさにキリスト教の信仰の根本をなすものだと言えるでしょう。  

Posted by せさみん at 10:49Comments(0)TrackBack(1)聖書

2007年04月01日

受難週です。

 キリスト教のカレンダーでは受難週という期間に入ります。受難週というのは十字架にかけられたキリストの苦しみを心に留め、そのことによって救われたことを感謝する気持ちで過ごす一週間です。受難週が終わると来週の日曜日が復活祭(イースター)になります。カトリックでは受難週を含む受難節という40日間は、断食をする日があったり、自分で決めた節制を実行したりするそうです。うちはプロテスタントなのでそういう定めはありませんが、やはり、十字架のキリストのことを思うと、贅沢したり、遊びに行ったりするような気持ちにはならないものです。
 キリスト教では「人間が神に対して罪を犯し、その刑罰をイエス・キリストが身代わりに受けるために十字架にかかり、その結果人間は永遠のいのちをもらって天国に行ける」と説明します。こういう話をすると、納得して下さる方もあれば、「そんなうまい話ありえない」とおっしゃる方もあります。罪を犯してきたことを自覚し、このありえないようなうまい話を疑いもなく信じて、イエス・キリストの十字架による救いを人生の基盤に置いている人たちがキリスト教の信徒です。
 教会の礼拝では十字架について書かれてある聖書の箇所が開かれ、そこから説教(叱ることではありません、聖書のお話をすることです)を行いました。信徒とは言え十字架を人生の基盤に置いている割には、日常生活の忙しさの中で自分中心の生活になりがちです。毎年めぐってくる受難週ですが、自分の信仰を見直し、信仰が生活に反映されているかどうかを自己吟味する大切な時なのです。  

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