イースター

せさみん

2007年04月09日 10:49

 昨日の日曜日はイースター(復活祭)の礼拝でした。イースターはキリスト教でいちばん大切な行事です。え?クリスマスじゃないのって…クリスマスは世俗化してしまい、もはやキリスト教の行事だとは言えないほどに世間に浸透しているので、認知度は上ですが、教えの内容と、祝われてきた歴史という点から言えば断然イースターの方が重要です。キリスト教の信徒でもあまり理解していない人が多いんですが(^_^;)

 何はともあれ、昨日の礼拝ではイエス・キリストが十字架で墓に葬られて復活したという聖書の箇所から説教(聖書の解説とお話です)をしました。
 遺体を引き取りたいとの要望を受けて、十字架にかけられたイエス・キリストの死が、ローマから派遣されていた総督ポンテオ・ピラトと処刑の責任者であった百人隊長との間で確認されます。続いて、アリマタヤのヨセフという、心あるユダヤ人国会議員の手によって葬られます。私たちは火葬しますが、当時のイスラエルは土葬。ミイラみたいに遺体に布をグルグル巻きつけて、滝尾の百穴みたいな感じの横穴をお墓にして遺体を安置します。ところが十字架刑の行われた日は金曜日。金曜日の夕方から土曜日の夕方までは安息日という、礼拝のための日に定められていました。(当時のイスラエルでは夕方から一日が始まりました)夕方になって安息日が始まると色々な制限があって遺体を葬ることができなくなるので、埋葬は大急ぎで行われました。
 土曜日の夕方になって安息日が終わり、一晩明けた日曜日の早朝、イエス・キリストの生前、身の回りでお世話をしていた女性のうちの3人が、遺体に香油を塗るためにイエス・キリストの墓に行きます。遺体に香油を塗るのは女性の仕事だったということと、男性の弟子たちはイエス・キリストが逮捕されて十字架にかけられるときには、逃げ出していていなかったからです。(不甲斐ない男たち!!)
 2人の女性は気合を入れて朝早くから出かけてますが、墓の入り口には盗掘を防ぐために巨大な岩が置かれていて、誰かにどかしてもらわないと中に入ることができないということを思い出します。それでこの3人の女性たちは「誰が岩を動かしてくれるかねー」なんておしゃべりしながら、のんきに(無計画に!)墓にやってきてみると、あら(*_*)びっくり。例の重たい岩がどかされて、中には天の使いが座っているではありませんか!
 天の使いが言うには「十字架にかけられていたイエスはここに葬られていたけれど、よみがえったのでここにはいません。生前に約束していたようにガリラヤで再会するつもりなので、そのことを(裏切って逃げ出した)弟子たちに、特に(3回もイエス・キリストとの関係を否定した)ペテロに伝えて下さいね。」気が動転した女性たちは驚いて脱兎のごとく逃げ去ります。その後弟子たちは復活したキリストに出会い、神様から下された聖霊の助けによって、人が変わったように布教に励むようになります。

 キリスト教では、イエス・キリストが死から復活したことにより、すべての人の復活が可能であることが証明されたと考えます。私たち人間もこの世での生涯を終えたら終わりと言うのではなくて、もう一度新しい肉体と永遠のいのちをもらって復活し、将来神様が再建する新しい世界で生きるということが約束されるということです。よく、死んだら天国に行くと言われますが、天国は実体のない魂がフワフワ生きている世界ではなくて、新しい肉体をもらってよみがえった人間が神様と一緒に生きてゆく世界であって、木も草も川もあれば家もあるという世界です。
 もう一つ大切なことは、今まで土曜日だった安息日という礼拝の日が、キリストの復活を記念して、日曜日に変更されたということです。礼拝の曜日を変更するというのは、宗教上はとてつもない大変更なのですが、すでに1世紀のうちに日曜日=礼拝というのが習慣として定着したことが分かっています。イースターというのは年に一回だけですが、日曜日に礼拝をしているということ自体が、イエス・キリストの復活を記念することになります。なので、日曜日という礼拝の曜日はとても大切で、人間の都合で変えることはできません。

 キリスト教信徒は、この超非科学的かつありえない「復活」ということを、仮死状態からの蘇生とか、心の中で生き続けたとかいうことではなくて、本当に死んで本当によみがえったのだと信じています。そして、そのことによって、自分もやがて天国へ入れていただいて神様と共に生きるという目標を持ちます。死んで終わりならば、他人に迷惑をかけない程度に楽しいことをして、おいしいものを食べて生きようという人生哲学もアリですが、死んでもその先があると思えば、その先のことを考えて生きる人生もアリだと思います。復活を信じるとは、自分の経験や知識を積み重ねてすべてのことを判断する人生から、まだ見ぬ天国への希望や、人間を超越した神様から与えられる導きから逆算して人生を生きる生き方へのシフト、つまり人間中心から神様中心への視点の転換を促すので、まさにキリスト教の信仰の根本をなすものだと言えるでしょう。

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